« もつ鍋のこと | メイン

山縣有朋という人物

この人大好きです。
もっといろんなこと知りたいです。

軍内部に与えた影響
山縣の元長州藩出身の軍人ばかりを要職に就かせる手法は長閥と呼ばれ、嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、一旦は辞職もしている(山城屋事件)。とはいえ、明治の元勲だけあって、軍部への影響力は計りしれないものがあった。

1912年(大正元年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している[4]。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職して、第3次桂内閣が発足するに至った[5]。これも寺内正毅と共に長州びいきを推し進めた結果である。

しかし、寺内の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終わりは決定的となった。その後、軍内部では反長閥の名のもとに排斥が進み、かつては「長州出身と書けば要職に就ける」とまで言われたのが逆に仇となった。東條英機は特に長州出身の者を徹底的に軽蔑し、試験の際も長州出身というだけで東條は大幅に点を落とさせたという。しかし、陸軍大学校を卒業したエリートが実権を握るようになり、それ以外の者達は彼らを軍閥と呼んだ。この軍閥の台頭により長閥・反長閥は共に権力から遠ざけられ、軍閥とそれ以外の者達の対立が新たに生まれたのであった。

自由民権運動の弾圧や、大逆事件を積極的に推し進めたこと、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙(この事件の原因は山縣よりも西園寺公望にあるとも言われているが、世間では藩閥間の対立として捉えられて、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面がある)等から、山縣の人気は生前から非常に低かった。

その死に際しては、維新の元勲として国葬が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はあまりなかった。これに対し、ほぼ同時期に行われた大隈重信の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の元勲であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「国民葬」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった。当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。

皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。

また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについて原敬は「あれは足軽だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた。

加えて長州閥の代表格であったことから、戊辰戦争で敵対した旧幕諸藩の出身者からも評判が悪かった。明治期を通じて会津藩や南部藩出身者などを「朝敵風情が」と見下し、会津松平家出身の秩父宮勢津子妃の婚姻に反対するなど様々な妨害工作を行った。理不尽な仕打ちを受けた事による薩長閥への恨みは、負の遺産となって会津若松市民の山口県出身者へのわだかまりとして現在も残ってしまっている。

しかし、昭和天皇は軍人として山縣のことを高く評価していたようである。昭和天皇の項目を参照。

庭園好きとしても知られ、京都の無鄰庵、東京の椿山荘は、山縣が7代目小川治兵衛を抜擢して築かせたものである。他に大磯の小淘庵、小田原の古稀庵がある。茶人としても知られ、また和歌を好んだ。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
相互リンク
保証人不要 デリヘル デリヘル情報 デリヘル 宮城・仙台 デリヘル デリヘル新潟 デリヘル 名古屋 デリヘル 宮城 デリヘル 中洲

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kantan-blog.com/cgi_bin/mt/mt-tb.cgi/1654

About

2008年02月08日 19:39に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「もつ鍋のこと」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34